【 概 要 】−長岡牧野家は藩祖牧野忠成から13代まで長岡藩主を歴任にした氏族です。2代藩主は忠成の長男である光成の長男で当初、忠盛と称していましたが2代藩主を担うにあたり初代の名称を継承し忠成に改称しています。光成が死去する数ヶ月前、初代忠成の異母兄弟である牧野秀成が派閥争いが原因(推定)で椿沢寺(見附市)に幽閉され暗殺又は強制的自刃した事で藩内は不穏な空気で満ちていたとされ、そのような状況で光成が死去し、幼少である忠盛(忠成)が後継指名された事で御家騒動が起きています。
特に忠成の2男で与板藩初代藩主牧野康成と4男で寄合旗本(三根山藩藩祖)牧野定成が権利を主張し最終的には幕府の裁定を仰いでいます。3代忠辰は長岡藩(藩庁:長岡城)三名君に数えられる人物で風紀の徹底、殖産興業政策、消防制度の確立などに尽力し、4代忠寿によって神霊として長岡城に祀られ9代忠精によって悠久山に社殿が造営され蒼柴神社が創建されています。
忠精は奏者番、寺社奉行、大坂城代、京都所司代、老中など歴任するなど幕政でも大きな影響力を持ち寛政の遺老の一人とされています。10代忠雅も。奏者番、寺社奉行、京都所司、老中を歴任、11代忠恭も奏者番、寺社奉行加役、京都所司代、老中を歴任しています。戊辰戦争直前の慶応3年(1867)に忠恭は隠居し12代忠訓に家督を譲っています。
初代忠成が普済寺、3代忠辰が東京都大田区池上本門寺、12代忠訓、13代忠毅が栄涼寺、以外、2代忠成から11代忠恭までは東京都港区三田台町の浄土宗寺院の済海寺が菩提寺となり葬られましたが、現在は牧野家御霊廟として3代忠辰が祭られている蒼柴神社(長岡市)境内に移されています。
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