栖吉城(長岡市)概要: 栖吉城の築城年は不詳ですが戦国時代の永正年間(1504〜1521年)、古志長尾家の当主である長尾孝景によって築かれたと推定されています。古志長尾氏は越後国守護職上杉家の親戚筋で上杉憲顕に従って当地に配され、当初は蔵王堂城を本拠にしていましたが孝景の代に栖吉城に移ったとされます。守護職上杉家が衰退すると守護代長尾家に接近し長尾顕吉の娘(虎御前)を長尾為景に嫁がせ後に春日山城の城主上杉謙信となる虎千代の生母となっています。
古志長尾氏は栖吉城を本拠とし上杉姓を名乗る事が許され上杉景信の代には重臣として謙信の信任も厚かったそうです。天正6年(1578)3月15日に謙信が死去すると景勝と影虎が後継者を巡り御館の乱が勃発し景信は影虎側に付き景勝と対立します。6月11日の居多浜での戦いで景信は戦死、天正7年(1579)に影虎が鮫ヶ尾城(妙高市)が自害、天正8年(1580)には栖吉城が景勝に攻められ落城し古志長尾氏は没落します。その後は景勝側の武将が栖吉城の城代として派遣され城郭として機能しましたが、慶長3年(1598)、景勝が会津若松城(福島県会津若松市)に移封になると廃城になっています。
栖吉城は標高275mの城山山頂に築かれた中世の山城で頂上部に設けられた主郭を中心に第2郭、第3郭、詰城といった主要な郭がありそれぞれが深い空堀と土塁によって囲われ、要所には幾重にも竪堀が設けられていました。栖吉城は現在でも遺構が明瞭で歴史的にも重要な事から昭和36年(1961)に新潟県指定史跡に指定されています。又、栖吉城のあった城山の中腹には長岡藩の初代藩主牧野忠成の菩提寺である普済寺が境内を構え墓碑が建立されています。
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