五十嵐館(三条市)概要: 五十嵐館は鎌倉時代から御家人だった五十嵐氏の居館跡です。伝承によると鎌倉幕府御家人、五十嵐小文治吉辰が築いたとされ、歴代当主は代々小文治の名を世襲しています。五十嵐氏は当地を開発した五十日帯彦命(第11代垂仁天皇の皇子)の後裔とも云われる氏族で、小文治は武芸に優れ、弓の名手と云われた那須与一とも親交があり、建暦3年(1212)の和田合戦で朝実三郎義秀(和田義盛の子)との戦いに敗れ討ち死にしたとされます。
五十嵐氏は鎌倉時代にこの地に土着してから400年に渡って支配しましたが春日山城(新潟県上越市)の城主上杉謙信の跡継ぎ争いである"御館の乱"が天正6年(1578)に勃発すると上杉景虎(北条氏康の7男)側についた為、上杉景勝(謙信の甥)勢によって攻め滅ぼされました。その後は不詳ですが江戸時代初期までは館として利用されていたとされ、発掘調査でもそれらの遺物が発見されています。
五十嵐館は単郭の平城で東西80m、南北95m、8330uの規模で幅10m、深さ1mの堀と土塁で囲われて、南東と南西の角に櫓があり東側の中央部分に虎口が設けられていました。戦国時代の城郭とは異なり軍事的要素を最小限に留め、居館や政務中心に計画され(建物の跡としては2棟以上が確認されています)、実際の戦術的な意味合いが強く、五十嵐館の詰め城は現在五十嵐神社が境内を構える飯田城が担っていたと思われます。五十嵐館は中世の豪族居館の典型として貴重な事から昭和48年(1973)に新潟県指定史跡に指定されています。
五十嵐館:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-新潟県教育員会・三条市教育委員会
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