南魚沼市(歴史)概要: 南魚沼市六日町は中世、上田長尾氏の居城である坂戸城の城下町として発展した町です。上田長尾氏は越後守護代長尾氏の一族で、当時上田庄と呼ばれた南魚沼郡一帯を支配し、戦国時代には周囲の豪族を束ねる国人領主として勢力を強め、越後を掌握した上杉謙信とも敵対関係でした。
天文20年(1551)に当時の領主政景が謙信に敗れますが政景の室が謙信の姉だった為所領が削られながら許され、その後、政景の子景勝が謙信の養子となり上杉家を継ぐと死地を回復します。坂戸城には景勝の重臣直江兼続が入り織田信長勢である滝川一益などと度々交戦し、南魚沼市周辺も戦場となりました。
周辺には上田長尾氏と縁が深い雲洞庵や関興寺、龍澤寺などの社寺が点在し、中でも雲洞庵は景勝と兼続が幼少の頃に学問を学んだ所としても知られ、「日本一の庵寺」と称されました。
景勝が春日山城(上越市)から会津若松城(福島県会津若松市)に移ると直江兼続もそれに従い、坂戸城には堀直寄が城主となります。その直寄も慶長13年(1608)に堀家の権力争いから信濃国飯山藩(長野県飯山市)4万石へ移封となります。
近世に入り三国街道が開削されるとその宿場町の1つとなりました。信濃川経由の魚野川舟運の最終河港として多くの物資の集積場となり商業的に大きく成長し文政11年(1828)には総船数37嫂のうち16嫂は六日町のものとされました。
又、長岡藩(藩庁:長岡城)や松村藩(藩庁:松村城)、与板藩(藩庁:与板城)の参勤交代や幕府の奉行、巡視などにも船が利用され「御殿船」と称し、屋根や障子が設えられていたそうです。
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