胎内市(歴史)概要: 中条は平安時代から開けていた地域で奥山荘と呼ばれていました。中世からは中条氏が支配し上杉家に従属、上杉景勝に伴い会津若松に移ります。江戸時代になると米沢街道(越後街道)と羽州浜街道の宿場町として賑わい、多くの物資の集積場となり六歳市が開かれるなど周囲の中心になりました。
黒川地区は享保9年(1724)に柳沢吉保(五代将軍徳川綱吉の側用人)の四男柳沢経隆が1万石で入封して黒川藩を立藩し明治維新まで代々柳沢氏が納めました。柳沢家は1万石という石高が低い事もあって定府大名として黒川陣屋で政務を行う事が基本的にはなかった為、政治的には不安定な状況が続き、一揆まがいの騒動が頻発していました。
幕末の混乱期の文久3年(1863)に7代藩主柳沢光昭が初めて御国入りを果たし藩校を開校させるなど良政を行いますが明治元年に戊辰戦争に巻き込まれます。黒川藩は当初、小藩といえど譜代大名という立場もあり奥羽越列藩同盟に参加しましたが同じく同盟側の新発田藩が新政府側につくと戦局が大きく変化し、隣接する三日市藩共々陣屋を無血開城し新政府軍に恭順しました。
その後、8代藩主柳沢光邦が黒川藩知事となり明治4年(1871)に発令された廃藩置県により黒川県に同年に新潟県に編入されます。
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