小千谷市(歴史)概要: 中世の小千谷市一帯は鎌倉幕府の御家人三浦氏の一族平子氏が支配したとされます。平子氏は承久3年(1221)に起こった承久の乱で功をあげ越後の地頭職になりこの地に土着し国人領主として成長していきました。小千谷市周辺は越後と関東を結ぶ要衝地であった為、重要視され平子氏も時代によって越後方や関東方、あるいは中立を守りながら地位を確立し、最終的には上杉謙信に従属することで家臣33位の地位を得ます。
謙信が死去後に起こった"御館の乱"での平子氏の動向の詳細は不明ですが、当時の領主和泉守が甲山城の城代として赴任していた所を景勝側の鯵坂長実が攻撃しているところから景虎方に組していたと考えられ急速に衰退していきます(その後の平子氏は景勝が会津に移封に従わず、関が原の合戦時に"上杉遺民一揆"に参加、一揆が鎮圧されると会津に落ち延びたそうです)。江戸時代に入ると高田藩に属し、後に天領の会津藩預かりとなり、町の中央には小千谷陣屋が設けられ周囲の中枢を担いました。
小千谷市街地は信濃川の対岸に整備された三国街道(長岡藩、与板藩、村松藩が参勤交代で利用。)と柏崎に通じる魚沼街道(鯖石街道)、与板城下に通じる与板道が交差する宿場町として整備され、信濃川舟運の拠点にもなっていた為、多くの物資が運びこまれ商業都市として大きく発展していきます。
又、江戸時代初期に堀次郎将俊によって伝えられたという小千谷縮や小千谷紬など現在に残る主産業もこの頃から発達しています。戊辰戦争時には長岡藩家老河井継之助と新政府軍の岩村精一郎が慈眼寺本堂で会談し、決裂したことで凄惨な北越戦争が勃発するという歴史的な場所でもあります。
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